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禁門の変前後の中岡慎太郎

以前北川村講演の時にもらった講座資料などを参考にしながら、中岡慎太郎の興味深い手紙を紹介します。

元治元年五月十一日 中岡慎太郎書状  
樋口真吉・上田楠次・門田為之助宛(『中岡慎太郎全集』p.53~55)所収

(前略)
扨々天下の事、実に地に落ち候様恐察仕り候。此節朝廷よりは政令一途と称し、万事幕府へ御委任に相成り、内は薩の奸臣両高崎(猪太郎・佐太郎)、藤井(藤井良節)、井上(井上弥太郎)の如きもの、親王及び大臣、大納言等を挟んで陰に逆意を施して天下に私心なきを示し、悪名を掩はんため、暫く三郎(島津久光)本国に帰る。最初少将に任ぜられ、未だ幾ばくならずして中将に進む。
私権の行はるゝ事も是にて見るべし。

尊王攘夷派の筆頭・長州が失墜した後、島津久光が少将から中将に昇進し、発言力を強めて、公武合体運動を更に推進するべく働き掛けていました。
これを受けて慎太郎たち尊王攘夷派勢力の者は憤激し、結集して義挙を起こし、場合によっては薩摩藩国父・島津久光の殺害も視野に入れて、事態の挽回を画策します。薩摩の藤井、井上、両高崎もターゲットに挙げられていますね。

(中略)
斯る切迫に及び候ては機会の急、間髪をも入れず、此の大機を失ひては実に相済まざる事に御座候。
之に依て 天下同志の士と相約し、来る六月十日を以て期限とし、天下の浪士相集り、京摂の間に伏匿し、団結して奉効の 忠を致さんと相約申し候。さりながら甚だ機密の事にて河野(河野万寿弥)及び水の山口(山口徳太郎)、因(州)一人、及び外両三人と相謀り申し候。
千屋菊(千屋菊次郎)清半(清岡半四郎)、今浪華に在り、是等上り候はゞ相謀り、大いに尽力の含に御座候。佶馬(北添佶磨)儀は別策あり候事故、
(中略)
僕実に去年出国仕り候て、今に至るまで寸功もなく、おめおめ生長らへ、又諸君の至るを待ち、人の力に依て事を成さんとするは先達脱走のしるし相立ち申さず、申分なく赤面の至に御座候。
実は一権道相行ひ申すべくと相考へ、
清半等と相謀り、已に不帰を誓ひて出門の事も両度に及び候へども、事不幸 にして遂に成らず、天下の人に対し面目更に御座なく、せめては天朝へ乱入嘆訴してなりとも、一身を清め申さんと、 長人四五名相約し候へども今日の機に望み候ては、今一策これあるべくと申すに相成り、只今の策に相決し申候。
此の上勢の動き様により右の一決も又々無きにも限らず、然しながら、とても四五名右の策に出で候のみにては、只今の事決して運び申さず、是非々々、大決断に出で申さずては相成らざる様存じ奉り候。

右に付、独眼竜(清岡道之助)組は出で申すべきに付、城中及び中郡の勢は成丈け其の土の豪傑衆より御引廻しを以て御打立に相成り、樋口先生(樋口真吉)は西郡御引率にて急々御上り願ひ奉り候。御国の儀はかねてより三藩と唱へ、勤王藩の名望天下に流れ居り候処、水長素より盛にして天下を以て自ら任じ、国力を尽して王事に勤む、宍戸、宇都宮、壬生の三藩も決心尽力、因、備、津和野も亦然り。備は君公よし、下に人材なくして確乎たらずといへども、其志大に好し。因、津和野に至ては頗る確固憤発す。
此時に至て独り我藩恣々無為、独り三藩の名に背くのみならず、天地神明に対してこれを何とか言はん。


脱藩したのにわずかな功績も挙げられず面目ない、「権道(けんどう)」、つまりテロによって身を清めたいという志士の価値観が伺えますね。
この手紙は慎太郎が土佐藩内に残る同志に結集を呼び掛けたものですね。独眼龍という綽名のあった土佐藩安芸郡の勤王党員・清岡道之助らのグループは参加するつもりだったようです。宿毛の勤王派集団のリーダー・樋口真吉にも話がいきますが、真吉は自重路線でした。北添佶磨は池田屋事件で死亡してますね。ちなみに名前が出てくる清岡半四郎は清岡道之助の実弟です。

唯今御国の勢を以て考えるに、純策に出候はヾ、民公子(山内民部)御上京(是も是非来月中旬を過ぎては不相成)乾退(乾退助)組随従。
其余有志の士、残らず此の如くなればよし、若し然ること能はずんば、公子上京これあるとも行はれず。仮令乾組随ふとも、外同志随はずば行はれず。
兎ても我輩同志の志を達する日を、内にて待ち候ては、決して百年待ちても其期これある間敷くに付、同志中、国に先だって報効し候時は、天下より見候ても矢張、土佐国の盛事にして、則ち忠孝にも相成り申すべくや。


彼らに協力的だった山内民部を旗頭にして、乾退助らと何事かを画策し、尊王運動を盛り上げるべく事を起こす考えもあったようです。
だいぶ無理があるんじゃないかとは思いますが、当時の考え方が分かって面白い手紙ですね。

兎も角も今日、天下の事を成ざれば成る日これなく、幾重もゝゝ日夜相継ぎ御苦心の上、急々御決策願ひ奉り候。
願はくば虚喝と思召さず、能々御察読願ひ奉り候。且又其上にて乾君など随従にて公子御上京相成り候はば是又甚だ宜しき事と存じ奉り候。此度は小南猿四郎(小南五郎右衛門)君、宮川(宮川助五郎)君なども御出張祈る所に御座候。
右の通り大挙候時は、却て御国の勢も張り申すべく、其上時宜に寄り生残りたる人は又帰国も相成るべく、何分にも早く天下を瓦解さずては憂土崩に至り殆んど救ひ難からんと存じ奉り候。

一旦干戈動き、人心改り申さずては、中々攘夷も何も出来申さず、過日、千屋虎之助長崎より帰り、清国の模様を聞候に、北京とか彼本国大いに此節盛に相成り候趣、兎角、大敗も取らねば行かぬものと見え申候。
痴念切迫、前後不分、冀くば御推読の程、是祈り候。万機拝眉の辰を期し候。恐惶謹言

五月旬一夕認              道正(花押)

樋口様  上田様
門田様  諸君子足下

右の通り相考認め候へ共、国に死し候事素より御銘々の御論に従ひ、御処置之あり候事は少しも御止め申上げざる事に候。


この後、慎太郎が期待をかけていた者達は、一方では池田屋事件で命を落とし、清岡道之助らは野根山二十三士の決起で処刑。また慎太郎ら長州の世話になっていた土佐の志士達も招賢閣の忠勇隊に加わり、禁門の変で手痛い敗北を喫します。
このように万策尽きて、元治元年十月十日 中平保太郎・上田楠次・門田為之助・大石弥太郎・川原塚茂太郎宛の「涙を抱えて沈黙すべし」で有名な慎太郎の手紙に繋がっていくわけですね。

天下の勢斯く相成候ては各国俗論と相成り致方無之、何卒同志中此上は脱走無之様、精々御慎制奉願上候。
(中略)
天下挽回再挙なきにあらず、乍然今暫く時を見る可し。依て沸騰及び脱藩は甚だ無益なり。涙をかゝへて沈目す可し。他に策なし。


この時期を境に慎太郎は、感情に任せた過激な行動から方針を転換していくようになります。
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土佐藩についての話題が多め。

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