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龍馬の転換期

土佐山内家宝物資料館には坂本龍馬の面白い手紙が収蔵されておりまして、グッズコーナーでそのミニレプリカも販売されています。

慶応二年十一月 溝淵広之丞あて

坂本龍馬

本文溝渕ニ送りし状の草■御覧の為ニさし出ス

先日入二御聴一候小弟志願略相認候間、入二御覧一候。小弟二男ニ生れ成長ニ及まで家兄に従ふ。上国ニ遊びし頃、深く君恩の辱(かたじけなき)を拝し海軍ニ志あるを以、官請(かんにこひ)爾来欧心刻骨、其術を事実ニ試とせり。独奈(ひとりいかん)せん、才踈ニ識浅く加之(しかのみならず)、単身孤剣(四字消)、窮困資材ニ乏き故に成功速かならず、然に略海軍の起歩をなす。是老兄の知所なり。数年間東西に奔走し、屡故人に遇て路人の如くす。人誰か父母の国を思ハざらんや。然ニ忍で之を顧ざるハ、情の為に道に乖り宿志の蹉躓(さち)を恐るゝなり。志願果して不レ就(ならずん)バ、復何為にか君顔を拝せん。是小弟長く浪遊して仕禄を求めず、半生労苦辞せざる所、老兄ハ小弟を愛するもの故、大略を述。御察可レ被レ下候。

十一月
頓首。

坂本龍馬


溝淵広之丞は嘉永六年、龍馬と共に江戸へ旅立ち千葉道場で同門だったと伝えられる間柄の人物ですね。
その親しい友人に宛てた龍馬の生い立ちから現在に対する思い、政治への志望と現実との間で葛藤している心境を吐露していて龍馬にしては珍しくシリアスな気持ちの伝わる手紙。この時代、長男以外の男性って微妙な立場なんですよね。養子にでも出して貰わないと家長のスペアみたいなポジションになってしまう…。
龍馬の兄・権平は、龍馬を自分の後継ぎにしたかったようですが。

この慶応二年十一月 溝淵広之丞あての手紙草稿は、昭和四年観光の『土佐勤王志士遺墨集』(財団法人青山会館編集発行)に写真掲載されて以来、原本は70年以上行方不明になっていました。平成十五年に史料収集を行っていた方から山内家宝物資料館に大量の史料が寄贈された際に再発見されたということだそうです。
しかし筆跡は龍馬のものなんですが、修辞が多く頭良さげな文章で何だか龍馬らしくない(失礼!)印象を受けますね。龍馬の書記であった長岡謙吉が手伝ったのではないかと指摘する研究者もいます。

この時の事情を龍馬は慶応二年十二月四日 坂本権平、一同あて書簡の中で説明しています。四境戦争の模様をイラスト入りで解説した有名な手紙ですね。
この時期長崎にいた龍馬、古くからの知人である土佐藩海軍の幹部・武藤颿と鉢合わせしそうになり、相手から身を隠しました。その様子を溝渕広之丞がいぶかり問い正したところ、龍馬が上の手紙の内容を答えたというものです。この手紙を溝渕が武藤にも見せ、武藤は龍馬に理解を示し、慶応三年一月に土佐藩参政・後藤象二郎と龍馬との清風亭会談のお膳立てをしてくれました。これが両者が共同路線をとるきっかけとなります。

実家宛の手紙でも龍馬はこの件について報告。

慶応二年十二月四日 坂本権平、一同あて

坂本龍馬

(前略)
御一同様
一、今春上京之節伏見にて難にあい候頃より、鹿児嶋に参り八月中旬より又長崎に出申候。先日江ノ口之人溝渕広之丞に行あひ候而(て)、何か咄しいたし申候。其後蒸気船の将武藤早馬に行逢候得ども、是ハ重役の事又ハ御国に帰れなど云ハれん事を恐れ、しらぬ顔して通行(すぎ)しに、広之丞再三参り、私之存念を尋候ものから認め送り候処、内々武藤にも見セシ様子。此武藤は兼而江戸に遊びし頃、実に心路(こころ)安き人なれバ、誠によろこびくれ候よし。旧友のよしミハ又忝(かたじけな)きものにて候。其私の存念ハ別紙に指上(さしあげ)候。御覧可レ被レ遣候。(以下略)


二通とも宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社:2003年)に収録されています。
というか龍馬の手紙はほぼ青空文庫等で読めますね。

後藤象二郎と手を組んだ龍馬は国許の姉・乙女にこの事を非難されます。それに対する龍馬の返答が(土佐)二十四万石を率いて~で有名なあの手紙。

慶応三年六月二十四日 乙女、おやべあて

坂本龍馬
(中略)
○又、御国の姦物役人ニだまされ候よふ御申こし。
 右二ヶ条ハありがたき御心付ニ候得ども、およバずながら天下ニ心ざしおのべ候為とて、御国よりハ一銭一文のたすけおうけず、諸生の五十人もやしない候得バ、一人ニ付一年どふしても六十両位ハいり申候ものゆへ、利を求メ申候。○又御国の為ニ力を尽すとおゝせらるゝが、是ハ土佐で生レ候人が、又外の国につかへ候てハ、天下の大義論をするに諸生ニまで二君ニつかへ候よふ申され、又女の二夫ニつかへ候よふ申て、自身の義論が貫らぬきかね候故ニ、浪人しつけるに、又ハ御国をたすけるに致さねバ、ゆかぬものニて候。夫で御国よりいで候人人ハ、皆私が元トにあつまりおり申候ゆへ、もふ土佐からハおかまいハなく、らくにけいこ致しおり候。
 此頃私しも京へ出候て、日日国家天下の為、義論致しまじハり致候。御国の人人ハ後藤庄次郎、福岡藤次郎、佐々木三四郎、毛利荒次郎、石川清之助、これハずいぶんよきおとこナリ。中にも後藤ハ実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニハあるまいと存候。そのほかの人人は皆少少づづハ、人がらがくだり申候。
 清二郎が出かけてきたニ付て、此人ニも早早に内達致し、兄さんの家にハきずハ付ハすまいかと、そふだん致し候所、夫レハ清次郎が天下の為に御国の事ニ付て、一家の事を忘れしとなれバ兄さんの家ニきずハ付まいと申事なり、安心仕候。
 かれこれの所御かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と御笑被下まじく候。私一人ニて五百人や七百人の人のお引て、天下の御為するより廿四万石を引て、天下国家のの御為致すが甚よろしく、おそれながらこれらの所ニハ、乙様の御心ニハ少し心がおよぶまいかと存候。
(以下略)


大言壮語な人って率直な本心を語ってるわけではないですよね。
龍馬も家族宛の手紙では明るく振る舞ってるけど、脱藩して肩身が狭い事あり、先々への不安あり、金銭の苦労ありで色々しんどかった時期もあったと思うんですけど、友人には弱音を吐く事もあったのかな…と思いました。
特に薩摩からの仕事もなくなったこの時期は強盗にでも落ちぶれるんじゃないかという勢いで困窮していましたから…。このように浪士集団を率いて後ろ盾になってくれる藩を探し回る生活から、土佐藩の傘下に加わり国事周旋に奔走しようと龍馬も決意したのでした。

中岡慎太郎も禁門の変後、門閥を身方に取り君公の寵を得た物を身方に取らねばならぬという考えに落ち着き、また板垣退助なども「京都で事を謀っても群議百出して悉く失敗に終わる。各藩はその国許で方針策略を確定して、その後京都に打って出るのが得策である」という考えになりました。
かくして土佐勤王党盟主・武市瑞山の目指した土佐の挙藩勤王は、再び実現されました。

しかし龍馬って真面目に調べようとすると何気に難しい人なんだよなあ…。
性格面でもなかなか本心が読めないし、脱藩ルートにしても薩長同盟にしてもですけど、有名な出来事の実態もその知名度に反してイマイチよく分からない所がある。簡単に調べられないくらい、活動が多岐に渡っていたってことでもあるんですけどね。
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