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江戸期の土佐の倫理と風俗

今回は平尾道雄『土佐・庶民史話』より、江戸期の土佐の性風俗に関する話を引用します。

娼婦の話
近世土佐の藩政時代には、こんにちと同じく公娼制度を認めなかった。したがって江戸の吉原のような遊女屋といったものはなく、もっぱら質朴剛健をたてまえとしたので、料亭さえもその営業を許可されなかった。しかしセックスの問題はそれだけでは解決されなかったらしい。
延宝元年(1673)の文献として伝えられるものだが、城下農人町にかね、はつとよぶ二人の女性が「傾城同前に銀銭を取り不作法仕り候科」によって四月十二日に入牢、同十九日には鼻をけずって町中を引きまわしたうえ高知から追放されたと書かれている。私娼行為を処分したものだが、同時に古鉄買い浅右衝門の女房もおなじ処分をうけた。
浅右衛門は、自分の女房が「不作法の女どもを招き集め、銀銭を取り不作法仕らせ候段存じながらその通りにておき候科」というのが理由で、四月十二日に投獄、十九日には額へ焼印をうたれて伊予へ追放された。伊予はかれの故郷だったからである。そればかりでなく、科人たちの五人組からは代表十三人が袴をつけ、罪人引回しにしたがって町中をまわらなければならなかった。
ずいぶん思いきった刑罰だが、はたしてこれだけで売春行為を絶滅することができたであろうか。衣食住につぐ人間の本能が社会生活の条件に堰かれて、さまざまな形で罪をかさねたことも想像される。

山内家統治下の土佐藩は売春に対して非常に厳しい刑罰を適用して取り締まっており、土佐には売春史料が非常に乏しいそうです。中には例外的なケースもあったんですけどね。ちなみに芸者もいないので、お酌する女性が必要な場では臨時で雇っていたそうですよ。
売春が解禁されたのは明治に入ってからでした。
おそらくこの事と関連があると思うのですが、全国的にみると江戸時代には古風な風習になっていった男色の風習が土佐には残っていました。
平尾氏は西郷隆盛と板垣退助が男色お国振り談義で盛り上がっていたという逸話に触れ、衆道の精神に対する解釈を述べておられます。

衆道と封建制
衆道という古語がある。デモクラシーを意味する大衆の道ではなくて若衆の道かもしれない。すなわち男色の意で東、西洋を問わず古い歴史がある。変態性欲ではあるが、江戸期の陰間野郎とちがい、女色をいましめる戦国遺風として土佐にも残った。
古い記録のうちに、山内家二代藩主忠義と御預人の毛利勝永とは「衆道の御因みありて」と見えている。関ケ原戦争以前、大阪の山内屋敷と、豊前小倉の城主毛利屋敷とは隣りあわせだった。自然両家は懇意だったわけで、西軍に味方して一敗地にまみれ、肥後の加藤家へ預けられていた毛利勝永父子を、山内家へひきとったのもその旧交にむくいようとしたものである。
大阪時代、年長の毛利勝永が少年忠義を世話がったことは考えられるが、はたして衆道のちなみがあったかどうか。それはそれとして藩士の間では男色問題がしばしば世間を騒がせた。青年たちが少年の意思を無視して暴行を加えることがあり、少年の訴えを聞いた父兄はそれを無視することはできない。訴訟沙汰になって暴行者は処分されるのだが、こんな場合判決文には「狼藉」のことばが使用される。これに対して女色関係で処分されるのは「柔弱の交わり」だと先学から教えられた。
「御家中変儀」と題する罰録をみると、柔弱にくらべてなんと狼籍の多いことか。板垣退助も何回か「狼藉」ゆえに処罰をくっているが、後年の自由伯も青年時代にはかならずしも美少年の自由を尊重したものではなかったらしい。
水戸黄門は「政治は女色のごとくつかまつれ。上も下もよろしからではかなうまじ」と政治の要諦を説いている。男色のように上に位置するものだけが満足するようでは駄目だというのである。こんにち的に表現するならば労使協調論とでもいえるだろうか。
男色政治は独裁的であり、封建的である。一方的に強さをもとめて弱さをいやしめた。そうした観念が、ひたすら柔弱を恥じたばかりでなく、狼籍をかならずしも恐れなかった。土佐の青年武士はそのようにして育てられ、そのように育ったのである。美女に目をそむけ、美少年をもとめる風習がそこに生じたわけで、薩摩の場合も多分そんな事情でなかったかと思われる。
論客の多くは、薩摩と土佐をもっとも封建性のつよい地方としてあげているようだが、西郷と板垣のひそひそ講で、私たちは図らずも衆道と封建制の話題を得た。

だそうです。
最後に不倫に関する処分の話。

不倫のおきて
「五藤正俊筆記」と題する古記録があった。これはそのうちの記事のひとつだが、元録十五年(1703)七月十八日姦通罪を犯した武家の処分について、つぎのような実例をあげている。
男は馬淵大七、女は安藤藤十郎の妻、どちらも身分のたしかな武士と武家の妻女であった。それがどんな動機で、どんな経路で密通したかは説かれてないが、ともかくそれが発覚して二人とも入牢、しかも牢屋のなかで打首になった。そればかりでなく安藤藤十郎とその子、藤十郎の弟青木八兵衛は他国追放、大七の一族馬淵新丞は高知禁足、その弟は仁淀川以西へ追放になっている。おまけに坂崎庄左衝門という武士は「取持不埒」とあって遠慮処分を受けた。
当人たちの斬首もきびしいが、その余波がこんな形で親族にもおよんでいるのは平常生活の責任監視不行届の責めを問われたものであろう。坂崎庄左衛門のなぞの介在もあって小説的な悲恋を想像させるが、なによりも姦通罪のきびしさが身にしみる。
「御家中変儀」という書にはこんな記録がある。寛文十年(1670)九月のことで、ある日家中武士浅利四郎大夫が田野浦に住む浪人七条市郎右衛門に殺された。原因は四郎大夫が市郎右衛門の妻に密通していた事実が発覚、激怒した市郎右衛門の意趣討ちだったのである。
吟味の結果姦婦は打首、姦夫浅利四郎大夫はすでに殺されていたのでお構いなし、加害者七条市郎右衡門は他国追放の処分だった。本来ならば市郎右衝門も殺人の罪はまぬがれないところだが、死一等を減ぜられたのは被害者の姦通罪がよほど重くみられたためだ、とも推察されよう。

時代が下がると処分はもう少しゆるくなるようですが、どうでしょうか、現代とはだいぶ感覚が異なる世界だったのだなあという気にさせられますね。
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土佐藩についての話題が多め。

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