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安政の大獄と山内容堂 2

前回はペリー来航により外様大名にも幕政への道が開かれ、容堂が中央政界デビューするところまでお話ししました。

ここで持ちあがった大きなトラブルとは?
将軍継嗣問題条約勅許問題です。

十三代将軍徳川家定が虚弱体質で後継ぎが望めない人でしたので、その存命中から次期将軍を決める勢力争いが始まります。
その候補が一橋派南紀派
水戸斉昭の七男で御三卿一橋家に養子に入った一橋慶喜を押す推す一橋派と、年若い紀州藩主・徳川慶福を推す南紀派。
一橋派が老中阿部正弘、慶喜の実父である前水戸藩主徳川斉昭、薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平春嶽、土佐藩主山内容堂、宇和島藩主伊達宗城らや開明派幕閣で構成され、南紀派は彦根藩主井伊直弼を中心とする溜間詰譜代大名、大奥が支持していました。

一橋派と南紀派は政治方針の違いでも真っ向から対立関係でした。

『一橋派』は“軍事力強化による段階的な攘夷・阿部正弘の路線を引き継ぎ雄藩も幕政に参加する諸侯会議制”を目指す改革派路線、『南紀派』は“交渉に応じ開国を目指す・以前の特定の幕閣による独裁体制に戻そうとする”守旧派という方針でした。守旧派と新興勢力の争いって感じになるのかな。ここで阿部正弘が行った改革により、これまで厳重に禁じられていた各藩の武力強化が海防警備のため解禁になり、後々雄藩が幕府を倒せる武力を持てる状態になりました。
将軍継嗣問題と開国問題が絡み合って同時進行してるんですよ。ややこしいなあ。
ちなみにこの問題のさなか、安政四年に老中阿部正弘は病死。後釜には開国派の老中・堀田正睦が収まりました。

ともかく容堂さんの属する一橋派は朝廷にも工作を始めました。
島津斉彬が右腕・西郷隆盛を、また容堂に三条家へ紹介してもらった松平春嶽も自分の懐刀・橋本左内をこの時期一橋慶喜擁立に奔走させてるんですよ。この辺の事情で後に安政の大獄で弾圧されちゃいますね。
で容堂さんも朝廷から慶喜を推薦してもらえるよう有力公家の三条家へ働きかけます。
容堂さんの正室が三条実万の養女で、三条実万の正室も山内家一門の人間というわけで両家は深い繋がりがありました。ちなみに実万の息子・三条実美が後に武市さん達と協力して色々活躍しましたね。

孝明天皇や朝廷の公家達は開国反対派でしたので一橋派と朝廷は結託します。
一時は優勢に見えた一橋派でしたが、政治工作により井伊直弼が筆頭老中より上位の幕閣最高職・大老に就任したことから、その権限で徳川慶福を指名、将軍継嗣問題は南紀派の勝利に終わりました。

そして井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ることなく、アメリカの駐日公使ハリスとの日米修好通商条約調印を認可。 自分の意向をないがしろにされて怒った孝明天皇は、尊皇攘夷派の筆頭である水戸藩に『戊午の密勅(密勅といっても幕府に筒抜けでしたが)を送り、井伊直弼にしかるべき対応をさせろと命じました。また外国の圧力に屈し、天皇の意向を無視しての勅許なき条約調印で全国の尊王攘夷派が猛反発、いわゆる尊皇攘夷運動が盛り上がります。
この幕府を通り越して水戸藩に直に天皇の勅令が届くという幕府の権威ガン無視の事態に焦った井伊直弼は水戸藩に密勅の返納を要求、返せ返さないの押し問答で井伊直弼と水戸藩の間に緊張が高まります。

そんなこんなで井伊直弼が自分に反対する勢力を叩きまくる『安政の大獄』を行うわけです。
条約調印に反対した一橋派の大名や幕閣、協力した公家や宮家、そして井伊を批判する勤皇の志士達が一斉に処分されました。中でも水戸藩が特に厳しい処分でした。
『安政の大獄』というと吉田松陰の刑死などで尊皇攘夷派の志士への弾圧のイメージが強いと思いますが、当時は大名や公家の大量弾圧という前代未聞の事態への衝撃が強かったようです。

容堂さんは即座に処分は受けなかったものの、大阪沿岸警備を命じられた際には幕府への反発ともとれる過激な意見書を提出、幕府の海防警備の不十分さを批判した上、京都の警備の邪魔になるから大阪の人家は焼き払ってしまえというヤケクソ気味の内容でした。
この時は注意されるのみで済んだものの、安政五年十月、とうとう隠居の勧告がありました。既に松平春嶽・伊達宗城が隠居している上に、「万一機会を失い退き兼ね、幕(幕府)より厳しく譴を蒙り候様にては、養子の自分、宗祖已来代々の者へ大不幸にも相成るべし」と述べて隠居を決意しました。
処分はこれで終わらず、翌年十月三条家への密通や幕府に反抗した件を責められ謹慎を命じられます。
この謹慎というのが字面のイメージ以上に厳しい処分で、外出ダメ、手紙も来客もダメ、監視役が付くので迂闊にゴロゴロする事もできないという孤独でしんどいものでした。
先の見えない謹慎生活に容堂も自分の政治生命もここまでか…と絶望しかけたかもしれませんが、桜田門外の変により時勢が変化、万延元年九月には謹慎を解かれました。

この時期の容堂の行動、容堂が置かれた状況に対する土佐藩士の怒りは土佐勤王党の結成に結び付きます。

錦旗若し一たび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰に神明に誓い、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす

『土佐勤王党盟約文』の一節です。
彼らは水戸藩士が徳川斉昭らの境遇に対して抱いた義憤と同様のものを感じていたのではないでしょうか。
水戸藩も前藩主・現藩主そして一橋慶喜までも謹慎させられており、水戸藩士の怒りは非常なものでした。強権的すぎる弾圧は対象に自らの正義を確信させてしまうもの。
土佐勤王党による天誅も桜田門外の変の模倣ではないかと思われるのですよね。というのも狙われたのは主に安政の大獄で公家や志士の捕縛に関与した者達なのです。
土佐勤王党の者達にとって、謹慎解除後もしばらく容堂公は尊皇攘夷派の殿様だと認識されていた筈です。しかし容堂はこれ以降、常に時勢をよく見定めて行動方針を決めるようになります。
徳川を守る事に土佐藩二十四万石山内家の者としての責任を感じ続けていたであろう容堂公。
一方で頼山陽に深く傾倒し、水戸藩の藤田東湖のすすめで号を「忍堂」から「容堂」に改めたともいわれる豊信さん。
「世上解せず酔人の意」
尊皇と佐幕の間で揺れた幕末土佐藩、結局容堂公自身の真意はどこにあったのでしょうね。
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土佐藩についての話題が多め。

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