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岩井孫六「江戸日記」

信州大学教授・坂本保富氏による「土佐藩『徳弘家資料』から見た幕末期の日本 (平成16年度研究報告書)」内の松田智幸氏による「史料紹介 土佐藩郷士・岩井孫六『江戸日記』で幕末土佐藩についての興味深い史料が紹介されていますね。

えー、香我美郡王子村の郷士・岩井孫六正路という人が安政三年八月一日より臨時御用の勤番をもって江戸まで行った時の一年間余りの記録です。内容は個人的な日記の「諸用覚」と藩庁提出文書の記録控「諸指出扣」に分かれています。
この時期ペリー来航の影響で土佐の人達が大勢江戸湾警備に駆り出されているのがわかります。また藩をあげて西洋砲術・西洋兵学の習得を奨励しているようですね。

本史料によると安政三年八月十五日の前後に、藩主豊信の御供として随行し、江戸藩邸に詰めた郷士は、以下の人物が確認できるそうです。

山本喜三之進 山崎七兵 田村七衛門
田中恵三郎 野島清五郎 秦泉寺永衛
永田友之助 猪野光馬 猪野半平
藤村清八 山崎文三郎 池源六
田中嘉右衛門 大石弥太郎 谷作七
安岡恒之進 中島柳助 安岡覚之助

おお知ってる名前がチラホラと…。ただこの松田智幸氏の論理展開はねえ…別の著書「土佐勤王党考察」の方にもちょっと目を通しましたが、何故書いた人物も書かれた時期も不明の「勤王同志姓名付写」と書かれた名簿を取り上げて、『これが本当の土佐勤王党名簿なんだー!!』みたいな論調になるのでしょう…。何か「新史料によるとAと書いてあった!だから旧説のBはウソ!」みたいな強引な論理の展開なんだよなー。

したがって安政三年八月の江戸表へ出足した藩士や郷士たちは、江戸滞在中には、江戸湾警備の御用の合間には、前述のごとく、専ら藩主直命の西洋砲術の操練に励んでおり、この命令に反して、悠長に剣術修行などに打ち込む余裕など考えられないことであった。

という松田氏の記述には疑問を持ち、ちょうど松岡司氏が連載中の「以蔵新伝」でこの時期の話が出る筈でしたので、どういう解釈になるのかなーと思っておりましたが、松岡氏の考察によると、

安政3年(1856年)、18歳になった岡田以蔵は、武技を認められて藩庁から賞金を賜った。この頃の武市半平太は領内郡方(こおりかた)(藩内の郡部)へ指導に出かけており、以蔵も供をしたかもしれない。同年、師の後を追うように江戸へ上り、剣に打ち込むことになる。
ときの藩主山内容堂は、上士、下士を問わず、江戸湾防備のためにどんどん出張させるかたわら、合間をみて文武修行するよう勧めていた。国力や藩士のレベルアップが狙いで、半平太が江戸での「御用間(ごようのあいだ)を以(もって)剣術修行方」を命じられたのも同じである。
おそらく以蔵は江戸行きについて師と話し合っていたろう。彼が実際に出立したのは9月20日だが、同行した郷士永田友之助の年譜では、8月7日に出立を指示されたとある。これは半平太の出発と同じ日だ。
岡田家のあった神通寺村からほぼ1里(4キロ)北の、須江村に住む友之助は、以蔵とも知己だったはずだ。友之助は「御臨時御用」、つまり江戸湾防衛の用と記録にあり、10両の手当をもらっている。
以蔵も手当をもらいながら、形は半平太のような名目で江戸行きが実現したのではないか。全く自力での修行だった坂本龍馬の例とは、頭から異なる。「御用」があれば一番に務めねばならぬが、用のないときは剣の修行に専心できる。わずかに分かる以蔵の行動をみれば、そのように考えられるのだ。

ということになっていました。
この時期海防警備の傍ら剣術修行を行っていたのは土佐藩士に限らず、他藩の人達も同様ですし、普通に剣術修行と海防警備・西洋砲術の修行は両立すると私も思うんですよね。
武市さんの臨時御用命令書控えにも「御用間をもって剣術修行方仰せ付けられ」とあったし。
この表現だと海防警備がメイン、剣術修行がサブという感じに読めますね。優先順位考えれば確かにそうだ。この時期の集団での江戸行きは海防警備の任務のためってのが妥当かな~。
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