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坂本龍馬はなぜ脱藩したのか?

龍馬といえば脱藩ぐらいのイメージがありますが、脱藩した理由についてはあまり知られていないんじゃないでしょうか。今回は龍馬脱藩時の事情について解説したいと思います。

文久二年(1862)三月、薩摩藩国父島津久光は兵一千余を引き連れ、その武力を背景に幕政改革・公武合体運動を進のめるべく鹿児島を出発しました。尊攘派の志士達の間で、これは倒幕のための上洛だという誤情報も出回り、「久光の率兵上洛を利用し尊王の兵を挙げよう!」という主旨の計画が持ち上がります。

この前月、武市半平太の紹介状を持った吉村虎太郎が、長州の久坂玄瑞を訪ねています。
この旅の最中、虎太郎は平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)の話を聞かされ(吉村が誰からこの話を聞いたのかについては久坂玄瑞とか平野国臣とか諸説ありますが)、ともかくこの勇ましい計画に喜び大いに賛同した虎太郎はいったん帰国。瑞山に報告したあと沢村惣之丞らを連れ、同年三月初の脱藩を行いました。長州に戻り玄瑞と再会した虎太郎らは、更に国許の仲間を勧誘するべく今度は惣之丞を帰国させます。
更にさかのぼりますが同年正月、久坂玄瑞の所に瑞山の密書を携えた龍馬が訪ねて来ています。そこで龍馬は「草莽崛起」という考え方を聞かされました。
この時龍馬が持ち帰ったのが下の書簡。有名ですね。

文久二年一月二一日付久坂玄瑞書簡 武市半平太宛

其後は如何被為在候や、此内は山本・大石君御来訪下せられ、何ら風景も之無く、御気の毒千万存じ奉り候。最早、御帰国ならんと御察し仕り候。
此度、坂本君御出游在らせられ腹蔵無く御談合仕り候事、委曲御聞取り願い奉り候。竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外には迚も策之無き事と私共同志中申し合い居り候事に御座候。失敬乍ら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず。両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、万乗の君の御叡慮相貫き申さず而は神州に衣食する甲斐は之無きかと、友人共申し居り候事に御座候。就而は坂本君に御申談仕り候事ども、篤く御熟考下さる可く候。尤も沈密を尊ぶは申す迄も之無く候。樺山よりも此内書状来る、彼藩も大に振い申し候よし。友人を一両日内遣す積りに御座候。様子次第、尊藩へも申す可くと存じ申し候。何も坂本様より御承知ならんと草々乱筆推読、是祈り敬白。
  
正月念一
時気御自保申すも疎に御座候已上


竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外には迚も策之無き事と私共同志中申し合い居り候事に御座候。失敬乍ら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」と非常に激烈で熱い文面です。山内家宝物資料館で現物も見てきましたが、久坂は筆跡も熱い(笑)草莽崛起の部分とかぶっとい字になってるんですよw
「もはや藩などいらぬ。在野の志士が立ち上がるしかない」吉田松陰が唱えたこんな説で、龍馬含む土佐勤王党の人達も影響を受けていると思われます。

そんな龍馬の所に虎太郎の意を受けた惣之丞が帰国、説得にかかりましから、土佐藩の現状にしびれをきらした龍馬がついに決意。一方瑞山の考えは「一藩勤王」、「挙藩勤王」とも言われていますが、藩の力無しでは大局的に見て何も成し遂げられないという考えだったのでこの伏見義挙には乗りませんでした。
挙藩勤王は脱藩より了見が狭いかのような書き方をする人がいるのが気になるのですが、慶応三年には龍馬も乙女宛の手紙に書いているように「私一人ニて五百人や七百人の人お引て、天下の御為するより(土佐)廿四万石を引て、天下国家の御為致すが甚よろしく、おそれながらそれらの所ニハ、乙様の御心がおよぶまいかと存じ候」と同様の考えになっているんですよねえ。

武市瑞山はこの時期、薩長土三藩の志士らがそれぞれの藩主を擁して上京し、京で朝廷を復権させるべく働きかけることを提案していました。瑞山は尊皇藩の連携を目指し、龍馬ら脱藩組は佐幕藩である土佐のしがらみから逃れて自由な活動を目指したということですね。

久坂玄瑞の日記『江月斎日乗』、文久二年三月十一日には、
夜四時、土州吉村虎太郎ついに亡命して来る、二人同行、のちより十余人も来るべしとの事、愉快千万、彼輩の決心には感じ入り候。
と記されています。吉村達が勧誘したこの“十余人”(そんなに集まらなかったけど(笑))の内の一人が龍馬だったんです。ひとまずこの時期に龍馬は当面、虎太郎らの決起に加わろうかとの思いで脱藩に至ったというわけですね。つまり龍馬も当時は熱い気持ちにまかせて脱藩する、相当な熱血漢だったんです

薩摩藩を中心に、全国の同藩志士をも結集して反幕攘夷の挙兵を成そうとする、この途方もない野望は島津久光に制圧され、薩摩藩の同志、有馬新七らは上意討ちに合い死亡(寺田屋事件)、これを知った久坂玄瑞ら長州の同志たちの所司代襲撃計画も中止となり、あとはガラガラと崩壊いたしました。
龍馬らに先んじて畿内へ入っていた虎太郎は薩摩藩邸へ潜んでいたため、拘束され、脱藩後即土佐へ護送された形になりました。まあ虎太郎はその後京で、瑞山や平井収二郎と住居を並べて国事に奔走するわけですがそれはまた後の話。龍馬はこのとき幸い、一歩遅れて大阪または京入りした模様。ために護送を免れ、そこでしばらく裏街道を歩くことになる。最初から勝海舟に弟子入りしようと思って脱藩したわけじゃないんですよ?

というわけで、吉村虎太郎と坂本龍馬達は「伏見義挙に参加するため」という同様の理由で脱藩してるんですけど、なぜか龍馬の脱藩理由のみ謎扱いしてる人をたまに見掛けますね~。
この時期集団で脱藩してるのにナゼ龍馬だけ違う理由があったように見えるのかその根拠を教えてもらいたい。
昔の割とざっくりした書き方の本(『幕末維新の元勲、青年坂本龍馬の偉業』藤本尚則)にも脱藩理由はだいたい上記のような感じで説明されていたのですが。
武市瑞山の吉田東洋暗殺を嫌い袂を分って脱藩~みたいなイメージが付いたのは多分『竜馬がゆく』以降でしょうね。その東洋暗殺犯の一人である那須信吾が暗殺の直前、龍馬達の脱藩の案内をしてあげてるんですが。
ちなみに那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵ら参政暗殺犯の三名も、もともと伏見義挙に参加する予定でした。
龍馬の残した手紙や関係者の談話なんかを見た感じ、実際は時と場合によってはテロ上等という他の土佐勤王党員と変わらないメンタリティの持ち主だったようですけどね(笑)「龍馬はそんな血の気の多い理由で脱藩しないだろう」という、創作による先入観が邪魔してるんでしょうね。

松岡司『異聞・珍聞・龍馬伝』 (新人物往来社:2009年) に分かりやすい説明が載っていましたので、今回の記事はそれを参考にしています。
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土佐藩についての話題が多め。

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