スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

天誅を巡る薩摩と土佐の関係②

そういえば田中新兵衛の曖昧な経歴についてですが、出典は『奈良本人名』のようですね。横田達雄氏の本読み返してたら注釈に書いてくれてた…。新兵衛について「商人、或いは船頭の息子の二説有り、出自は明確ならざれど、森山新蔵の庇護を受け、藩士の家来となる」とあります。

以下前回の続き。
文久二年八月二十五日、土佐藩主山内豊範上洛。これに伴い武市瑞山も土佐勤王党を率いて入京し、これ以降国事周旋の傍ら、土佐勤王党が天誅を請け負うかのような形になります。松浦氏の見立てでは、薩摩側が出遅れていた土佐勤王党に、天誅役を田中新兵衛ごと押し付けることで、難しい問題から逃れたのではないかという事ですね。また瑞山としては那須信吾ら吉田東洋暗殺犯を薩摩藩邸に匿ってもらっているという大きな借りもあったわけです。
当初長州藩邸に匿われていた東洋暗殺三人組ですが土佐からの追手が掛かり、有村俊斎こと海江田信義の回想録『維新前後・実歴史伝』によると、久坂玄瑞たちの頼みで有村俊斎が薩摩藩国父島津久光に三人を保護するよう掛けあってくれたようですね。
本間精一郎が「島田左近を殺ったのは俺だー!」と偽の手柄を吹聴しに来て「そりゃウチの田中新兵衛だー!」と速攻バレて摘まみ出されたのもこの海江田の所だったかな(笑)

武市瑞山の京都での活動は閏八月六日から始まりました。この日は久坂を訪問。
翌日七日は岡藩小河一敏を訪問。ここで田中新兵衛と初めて顔を合せました。
瑞山の「在京日記」にこうあります。
八ツ頃より小河弥右衛門方へ行、折柄薩田中新兵衛来り面会す
松浦氏によると「運命的な出会いである」だそうです。この後土佐勤王党が天誅と密接な関わりを持つのもここから始まったわけですね。一方で八月二十一日に生麦事件が起こっていたため、薩摩藩は大忙し。このため瑞山は藤井良節・本田弥右衛門を何度も訪ねますがなかなか面会出来ませんでした。
閏八月十八日にやっと瑞山は藤井良節と面談。この日の瑞山の日記には、
十八日、早朝藤井へ行面会、機密を談ず、
同日、田中新兵衛来る、腹中を談じ兄弟の約を致す、
同日、又晩方も来り日暮迄談ず、

とあります。“機密”、“腹中”という表現が気になりますね。藤井良節らと瑞山の間に何らかの取引でも成立したのでしょうか?瑞山と田中新兵衛が義兄弟の契りを結んだのは政治的な意図が大きく絡んでいるようです。
横田達雄氏の指摘によると、瑞山は寺田屋事件以降、久光の対応を巡って亀裂の生じた薩長の間を取り持つ事に腐心していたようなのですが…?
この後「在京日記」見ると毎日のように田中新兵衛が来訪しています。この間に、本間精一郎と宇郷玄藩が暗殺。土佐勤王党の関与した天誅のターゲットの特徴は主に「安政の大獄関係者」なので宇郷玄藩についてはいいとして、最初の本間精一郎暗殺だけがイレギュラーな天誅なんです。本間暗殺理由の推測に関しては人によって言う事が違うのが面白いのですが、松浦氏は本間が志士間で悪し様に島津久光を誹謗していたため、藩の名誉のため武市瑞山一派に殺害を依頼したのではないかと推測しています。
土佐勤王党の客分のような扱いになったとはいえ、やはり新兵衛は薩摩の人間ですので九月二十七日には一時帰国しています。何か用事があったんでしょうかね?というわけで回顧録系の話に出てくる、田中新兵衛が石部宿事件に参加したという話は記録が合いません。

さて、田中新兵衛の最期と言えば朔平門外の変が大きく関わってくるのですが、この事件の犯人とされた新兵衛が自殺か他殺か、また実際に犯人であれば独断専行か黒幕はいるのか、松浦氏が複数の説を挙げて推理しています。
新兵衛が暗殺犯であった場合、松浦氏は孝明天皇・中川宮周辺―薩摩藩―田中新兵衛というルートで指令が出たのではないかと推測。
ちなみに三島由紀夫が田中新兵衛役を演じているという映画「人斬り」では、瑞山の命令で新兵衛が姉小路卿を暗殺するというストーリーになっているようですが、実際は朔平門外の変の前月、姉小路卿公知が政論を変える前に瑞山は土佐に帰国済みですので、これは映画の中だけのお話ですよ。

思うに、世上の田中新兵衛は、彼が薩摩藩から離れて独自の行動をしていたことが、協調されすぎている。彼が尊攘激派時代の暗殺業者として売りだし、薩摩藩は公武合体路線を固守していたことのズレから生まれたイメージではあるけれども、実状はなかなかそうでない。新兵衛を人斬りとして売り出したのも、武市の党に接近させたのも、また必要がおこればそこから引き離したのも、みな藩の都合によること、すでにみてきたごとくである。したがって、彼の最後が、薩摩藩の大きな策謀の中でひとつの犠牲だったと考えるのも、あながち無理ではなかろう。   (p.218~219)

と、最後に松浦氏は結んでいます。

姉小路殺害の容疑が掛かったまま田中新兵衛が死亡したため、薩摩は責任を問われて御所警備の任を解かれる事となりました。しかし新兵衛は藩からは罪人扱いされず、薩摩藩の菩提寺・即宗院に手厚く葬られました。やはりこれは政変に向けての暗殺、藩命だったのかなあ…。

『暗殺 明治維新の思想と行動』は特に薩摩が天誅を始めた事情についての考察が興味深い内容でした。
天誅とは何だったのか?基本的ながら無視されがちな定義だと思います。
「敵対勢力の暗殺」とか「佐幕の党を暗殺」という表現は、事実を表しているとは言い難いですね。天誅とは主に安政の大獄の「復讐」であり尊皇攘夷派の「示威行動」であるといった説明の方がまだ的を射てるのではないでしょうか。
幕末の時勢を一貫してリードしてきた割に薩摩藩の内情についてはあまり知られていませんよね。文久年間の薩長土その他の政治的な動きがもっと詳細に分かればいいのですが…。

松浦氏は触れませんでしたが『土佐偉人伝』によると、「藤井良節の書に曰く、洛下の形勢も次第に必迫いたし候、薩の田中、土佐の岡田等の狂暴は却って大事を誤るや」と警告らしき発言も伝わっています。これ誰宛のどの手紙に書いてあった話なのかな…。
松浦玲『暗殺』では田中新兵衛の項の後、岡田以蔵についての考察もありました。『維新土佐勤王史』での、龍馬の所に移った後の「然れども血気の勇は遂に頼むに足らず、全く酒色の為めに堕落して、当初剣客なりし本分を忘れ、其の乱行至らざる所なく、果ては無宿者鉄蔵の名を以て、京都所司代に脆くも捕縛せられぬ」という以蔵のダメ人間ぶりには言及していましたが、冷遇された以蔵の復讐という創作準拠の要素を持ちだすあたり(松浦氏も司馬ファンだもんね…司馬遼太郎『人斬り以蔵』が1964年発表だっけ)、こちらはやはり横田達雄『武市半平太と土佐勤王党』の記事の方が詳細で納得のいくものでしたね。松浦氏も『武市瑞山関係文書』を精読したわけではないでしょう。
創作された岡田以蔵のイメージについては以前の記事でも検証しましたが、岡田の末路は単に本人の志操のない人間性による自業自得であり、悲劇性は皆無です。当然ですが複数藩の志士が合同で行った集団リンチである天誅において、岡田のみドラマの様に「武市瑞山のために」天誅をしていたという事も有り得ませんね。
私も岡田以蔵に対しては当初は司馬遼太郎的なイメージから入って割と同情的だったんですよね。その後、土佐勤王党関文献を読み漁るうちにイメージが逆転しました。以蔵に関する文献も大体調べてます。もう二度と同情的な目で見ることは無いでしょう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

azoto

Author:azoto
土佐藩についての話題が多め。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
FC2カウンター
にほんブログ村Ranking
ブログランキング・にほんブログ村へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。