武市さんは色々と誤解されてると思うんですよね〜。
誤解の根底にあるのは『竜馬がゆく』で作られた「平和主義者」で「尊皇攘夷思想を持たない竜馬」と全く相容れない価値観の持ち主であるかのように描写されたこと。
それに加えて、誤解の最たるものが司馬遼太郎『人斬り以蔵』から派生した岡田以蔵関連の逸話によるイメージの数々。特にこちらは事実関係を考えると非っ常〜に不愉快です。
「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ!!(@ゲド戦記)」
というのは分かります。そこで
「その点坂本龍馬は温和な平和主義者で〜」と言われるとちょっと待てやとなりますね。
まず実在の坂本龍馬は別に平和主義者じゃありません。
爽やかなイメージで有名な名フレーズ「日本を洗濯」も姉・乙女宛の手紙の原文では「右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候」ですからね。
他にもこういう発言を龍馬はしていますが、場合によってはテロ上等というのは龍馬を含め維新の元勲に共通する考え方です。
ついでに龍馬が暗殺に参加した記録が勝海舟の日記に、人を斬り殺した伝承が海援隊士・関義臣の回顧録に、広井磐之助の仇討ちを手伝った記録が本人の手記に残されています。人命に対しての感覚は他の過激な勤王党員とそう変わらなかったと言えるでしょう。
実際に龍馬が尊王攘夷思想を敬遠したのではなく、戦争体験を持つ司馬氏がイデオロギー、テロ、殺人に拒否感を持ち、『竜馬がゆく』の主人公からこれらを省いたのだろうなあ…というのは想像がつきます。
しかし龍馬も幕臣との交流を深めるうちに政論面では成長していきましたが、やはり尊王攘夷思想がベースにあったことには違いありません。
嘉永六年、江戸湾の海防警備に参加した龍馬も父宛に「異国船処々に来たり候由に候へば、軍も近き内と存じ奉り候。その節は異国の首を打ち取り帰国つかまつるべく候」という手紙を出しています。
『竜馬がゆく』ファンから実在の坂本龍馬に関心を持ち出した時点で、司馬氏の読者サービスは切り離して考えるべきですね。
ああ、あと「吉田東洋暗殺を嫌って脱藩」という脱藩理由がついたのも司馬氏以降ですね。『竜馬がゆく』のタネ本の一つ平尾道雄氏の『海援隊始末記』では吉村虎太郎らと同じく「伏見義挙」の時期に誘われて脱藩という解説だったのですが。
それとそんな何かあれば切腹しろ切腹しろ言う人でもないです。
井口村刃傷事件の時は史料上そもそもいなかったし、山本琢磨の時計事件の時も、間崎哲馬の梅屋敷事件の時も、ちゃんとフォローに回っています。
史料に触れると、瑞山は物事はこうあるべき、武士はこうするべきっていつも考えてる人だと感じます。
龍馬の行動からは自由に生きる事への渇望みたいなものが、瑞山からは全力で武士として正しく生きる事への希求が感じ取れます。龍馬と瑞山は対照的な性格でしたが、私は二人とも好きなんですよね。
挙藩勤王、薩長連合、王政復古など瑞山の路線を龍馬らが後に踏襲しつつ発展させており、瑞山が引き立て役にされる謂れはありません。土佐藩の維新志士の働きは瑞山が第一走者であり、龍馬たち後に続く者がバトンを受け継いでくれているのです。
心底うんざりするのは岡田以蔵のほうですね。
創作でよくいわれる、身分が低く無教養で武市先生に蔑まれていたというのも、天誅で利用されたというのも、毒殺未遂を恨んで自白したのも全部司馬遼太郎作品からの創作です。
実際は親戚の者同様に可愛がられ、集団リンチである天誅では以蔵は記録上特別な存在ではなく、拷問で即座に自白しています。
これらの詳しい経緯は横田達雄『武市半平太と土佐勤王党』で確認できます。
岡田以蔵は身を持ち崩して龍馬達の元にも居られなくなったあげくに犯罪者にまで落ちぶれ、捕縛後は女性も耐えた拷問に泣き喚き、瑞山に「あいつは日本一の泣き虫にちがいない」と呆れられていた人物です。自白で同志を巻き込んだために、維新後は高知県護国神社の顕彰碑に名前を乗せるのを拒まれた、そのために悪目立ちしていた人間でした。
以蔵の自白に巻き込まれ、拷問死する人間も出る中、拷問に耐え抜き出獄後は戊辰戦争に参加し、その後は生き延びて新政府に出仕した人間にしてみれば、以蔵と殉難した同志を一緒に顕彰なんてしたくなかったのでしょうね。
獄中書簡から知った武市さんの牢番達から深く慕われる姿、身内同然に可愛がった以蔵の自白により仲間が追い込まれ苦しむ姿に「はらわたが削れそうな思いである」と述べ、拷問に耐え切れなくなった弟の田内衛吉から自害のための毒薬の手配を頼まれ、妻の従兄弟で同じ剣術道場に通い道場の門弟でもあった島村衛吉が拷問死した際の慟哭、胸が潰れそうな思いをしてボロボロになりながら死んでいく姿、そういう生々しい感情に獄中書簡などで触れて、なんかもう等身大の人間として好きにならずにはいられなかったですね。
ていうか史料上の以蔵に同情すべき要素がまるでないのに反して、武市先生すごい可哀想で…。
要するにこの二名に関しては、被害者と加害者の関係が正反対に扱われてるということなんです。
こんなの絶対おかしいですよ〜。
維新志士は龍馬と慎太郎しか知らない状態から武市先生を調べて、今では郷土の偉人として尊敬しています。
武市先生は土佐藩全域から協力者を集め、土佐藩上士にも山内家連枝にも協力者がいました。この辺も階級間闘争を強調する司馬作品の影響で無視されていますね。
武市さんは土佐人には珍しい落ち着きと協調性を兼ね備えた人で、藩内と藩外、大同団結して事に当たろうとする一貫した姿勢を持っていました。文久年間の京で土佐藩が薩長土の三翼に食い込めたのは、ひとえに瑞山のこの姿勢によるものです。基本的には暴挙も止めて回る側だったんですけどね。あえて欠点を挙げると、ちょっと正しいか間違っているかだけで物事を考えがちな部分はあったと思います(笑)
創作を鵜呑みにして不快な中傷をする人が多いのでこのような記事を書きました。
『竜馬がゆく』のおかげで高知の観光産業がどんだけゲタ履かせてもらってるかを考えると、司馬遼太郎氏には感謝してもしきれないのですが、あんな武市さんに悪印象な創作はして欲しくなかったなあ…と今は思っています。
というか「私心を去って自分をむなしくしておかなければ人は集まらない。人が集まることによって知恵と力が持ち寄られてくる。仕事をする人間というものの条件のひとつなのであろう。by竜馬がゆく」って武市さんのことじゃないのかなあ?どっちかというとね。
誤解の根底にあるのは『竜馬がゆく』で作られた「平和主義者」で「尊皇攘夷思想を持たない竜馬」と全く相容れない価値観の持ち主であるかのように描写されたこと。
それに加えて、誤解の最たるものが司馬遼太郎『人斬り以蔵』から派生した岡田以蔵関連の逸話によるイメージの数々。特にこちらは事実関係を考えると非っ常〜に不愉快です。
「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ!!(@ゲド戦記)」
というのは分かります。そこで
「その点坂本龍馬は温和な平和主義者で〜」と言われるとちょっと待てやとなりますね。
まず実在の坂本龍馬は別に平和主義者じゃありません。
爽やかなイメージで有名な名フレーズ「日本を洗濯」も姉・乙女宛の手紙の原文では「右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候」ですからね。
他にもこういう発言を龍馬はしていますが、場合によってはテロ上等というのは龍馬を含め維新の元勲に共通する考え方です。
ついでに龍馬が暗殺に参加した記録が勝海舟の日記に、人を斬り殺した伝承が海援隊士・関義臣の回顧録に、広井磐之助の仇討ちを手伝った記録が本人の手記に残されています。人命に対しての感覚は他の過激な勤王党員とそう変わらなかったと言えるでしょう。
実際に龍馬が尊王攘夷思想を敬遠したのではなく、戦争体験を持つ司馬氏がイデオロギー、テロ、殺人に拒否感を持ち、『竜馬がゆく』の主人公からこれらを省いたのだろうなあ…というのは想像がつきます。
しかし龍馬も幕臣との交流を深めるうちに政論面では成長していきましたが、やはり尊王攘夷思想がベースにあったことには違いありません。
嘉永六年、江戸湾の海防警備に参加した龍馬も父宛に「異国船処々に来たり候由に候へば、軍も近き内と存じ奉り候。その節は異国の首を打ち取り帰国つかまつるべく候」という手紙を出しています。
『竜馬がゆく』ファンから実在の坂本龍馬に関心を持ち出した時点で、司馬氏の読者サービスは切り離して考えるべきですね。
ああ、あと「吉田東洋暗殺を嫌って脱藩」という脱藩理由がついたのも司馬氏以降ですね。『竜馬がゆく』のタネ本の一つ平尾道雄氏の『海援隊始末記』では吉村虎太郎らと同じく「伏見義挙」の時期に誘われて脱藩という解説だったのですが。
それとそんな何かあれば切腹しろ切腹しろ言う人でもないです。
井口村刃傷事件の時は史料上そもそもいなかったし、山本琢磨の時計事件の時も、間崎哲馬の梅屋敷事件の時も、ちゃんとフォローに回っています。
史料に触れると、瑞山は物事はこうあるべき、武士はこうするべきっていつも考えてる人だと感じます。
龍馬の行動からは自由に生きる事への渇望みたいなものが、瑞山からは全力で武士として正しく生きる事への希求が感じ取れます。龍馬と瑞山は対照的な性格でしたが、私は二人とも好きなんですよね。
挙藩勤王、薩長連合、王政復古など瑞山の路線を龍馬らが後に踏襲しつつ発展させており、瑞山が引き立て役にされる謂れはありません。土佐藩の維新志士の働きは瑞山が第一走者であり、龍馬たち後に続く者がバトンを受け継いでくれているのです。
心底うんざりするのは岡田以蔵のほうですね。
創作でよくいわれる、身分が低く無教養で武市先生に蔑まれていたというのも、天誅で利用されたというのも、毒殺未遂を恨んで自白したのも全部司馬遼太郎作品からの創作です。
実際は親戚の者同様に可愛がられ、集団リンチである天誅では以蔵は記録上特別な存在ではなく、拷問で即座に自白しています。
これらの詳しい経緯は横田達雄『武市半平太と土佐勤王党』で確認できます。
岡田以蔵は身を持ち崩して龍馬達の元にも居られなくなったあげくに犯罪者にまで落ちぶれ、捕縛後は女性も耐えた拷問に泣き喚き、瑞山に「あいつは日本一の泣き虫にちがいない」と呆れられていた人物です。自白で同志を巻き込んだために、維新後は高知県護国神社の顕彰碑に名前を乗せるのを拒まれた、そのために悪目立ちしていた人間でした。
以蔵の自白に巻き込まれ、拷問死する人間も出る中、拷問に耐え抜き出獄後は戊辰戦争に参加し、その後は生き延びて新政府に出仕した人間にしてみれば、以蔵と殉難した同志を一緒に顕彰なんてしたくなかったのでしょうね。
獄中書簡から知った武市さんの牢番達から深く慕われる姿、身内同然に可愛がった以蔵の自白により仲間が追い込まれ苦しむ姿に「はらわたが削れそうな思いである」と述べ、拷問に耐え切れなくなった弟の田内衛吉から自害のための毒薬の手配を頼まれ、妻の従兄弟で同じ剣術道場に通い道場の門弟でもあった島村衛吉が拷問死した際の慟哭、胸が潰れそうな思いをしてボロボロになりながら死んでいく姿、そういう生々しい感情に獄中書簡などで触れて、なんかもう等身大の人間として好きにならずにはいられなかったですね。
ていうか史料上の以蔵に同情すべき要素がまるでないのに反して、武市先生すごい可哀想で…。
要するにこの二名に関しては、被害者と加害者の関係が正反対に扱われてるということなんです。
こんなの絶対おかしいですよ〜。
維新志士は龍馬と慎太郎しか知らない状態から武市先生を調べて、今では郷土の偉人として尊敬しています。
武市先生は土佐藩全域から協力者を集め、土佐藩上士にも山内家連枝にも協力者がいました。この辺も階級間闘争を強調する司馬作品の影響で無視されていますね。
武市さんは土佐人には珍しい落ち着きと協調性を兼ね備えた人で、藩内と藩外、大同団結して事に当たろうとする一貫した姿勢を持っていました。文久年間の京で土佐藩が薩長土の三翼に食い込めたのは、ひとえに瑞山のこの姿勢によるものです。基本的には暴挙も止めて回る側だったんですけどね。あえて欠点を挙げると、ちょっと正しいか間違っているかだけで物事を考えがちな部分はあったと思います(笑)
創作を鵜呑みにして不快な中傷をする人が多いのでこのような記事を書きました。
『竜馬がゆく』のおかげで高知の観光産業がどんだけゲタ履かせてもらってるかを考えると、司馬遼太郎氏には感謝してもしきれないのですが、あんな武市さんに悪印象な創作はして欲しくなかったなあ…と今は思っています。
というか「私心を去って自分をむなしくしておかなければ人は集まらない。人が集まることによって知恵と力が持ち寄られてくる。仕事をする人間というものの条件のひとつなのであろう。by竜馬がゆく」って武市さんのことじゃないのかなあ?どっちかというとね。



